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飼い主が治療を拒否したとき-獣医師の道徳的苦悩とその対処法-
2025年10月21日
2025年10月21日配信
背景と目的
臨床現場では、推奨される治療を飼い主が経済的、文化的、あるいは個人的な理由で拒否する場面に遭遇します。このとき最も苦しむのはペットですが、獣医師自身もまた「助けたいのに助けられない」という葛藤に直面します。こうした状況は「モラル・ディストレス(moral distress)」と呼ばれ、精神的疲弊や燃え尽きの一因となります。
本稿(Zenithson Ng, DVM, MS, DABVP)は、治療拒否への対応と獣医師自身の心の健康を守るための実践的戦略を提示しています。
モラル・ディストレス(moral distress)
モラル・ディストレスとは、「倫理的に正しいと信じる行動ができないことから生じる心理的・感情的苦痛」と定義されます。獣医師にとって典型的な例は、救える可能性のある動物が、費用や飼い主の意思によって治療されないケースです。
●症状:罪悪感、無力感、怒り、疲労、燃え尽き
●影響:チームの士気低下、職場離脱、長期的なメンタルヘルス悪化
飼い主対応の工夫
1. 冷静で共感的な姿勢
飼い主の拒否は獣医師個人への攻撃ではなく、多くは「無力感」「罪悪感」「経済的困難」から生じるものです。怒りをぶつけられた場合でも、個人攻撃と受け止めず、落ち着いて「一緒にできることを探しましょう」と伝える姿勢が重要です。
2.透明性のある見積もり
治療オプションを項目ごとに明示し、費用の内訳を提示することで、「お金目的ではない」という信頼を得やすくなります。
3. クリニックとしての一貫性
「これは病院の方針です」と伝えることで、獣医師個人の判断から距離を置き、責任を共有化できます。受付時に「お支払いはどのようにされますか?」
と確認するのも予防策となります。
4. 選択肢の提示
○支払いプランや金融支援制度の紹介
○動物保護団体や慈善基金への相談
○飼い主が世話を続けられない場合、動物を保護施設へ委譲する選択肢
○最後の手段として安楽死も選択肢に含めるが、飼い主に罪悪感を抱かせないように伝える
獣医師自身のセルフケア
○チームでの共有
苦しい症例は抱え込まず、ミーティングや雑談で共有することで精神的負担が軽減されます。
○モラル・ディストレスの言語化
「あのケースでは、自分の倫理観と行動が矛盾していた」と認識すること自体が回復の第一歩です。
○成功体験の振り返り
問題症例に心を囚われがちですが、救えた動物や感謝された経験を意識的に思い出すことは自己効力感を回復させます。
○限界を認める
「すべての患者を救えない」という現実を受け入れることも必要です。これは無責任ではなく、職業的持続可能性のための自己防衛です。
臨床応用-実際の診療での実践例
○ケース:パルボウイルス陽性の子犬に対し、飼い主が治療も検査も拒否して退院した。
このケースでは、見積もりと治療選択肢を示し、支援団体の情報を提供したが、飼い主は最終的に治療を拒否した。AMA(Against Medical Advice)フォームを用い記録を残すことで、医療側も法的・倫理的に保護される。
○フォローアップ
このようなケースでは、診療後にチームで感情を共有し、各自の思いを言葉にすることが推奨されます。
結論
飼い主が治療を拒否したとき、最も苦しいのは獣医師自身です。モラル・ディストレスを放置すれば、燃え尽き症候群や離職につながります。共感的な対応、透明性の高い説明、代替案の提示、チームでの感情共有が、このような難題を乗り越える鍵です。
すべての動物を救えなくとも、誠実に向き合った過程そのものが、獣医師としての価値を示すものといえるでしょう。
※『How to Cope With Moral Distress When Clients Refuse Treatment』
著者: Zenithson Ng, DVM, MS, DABVP (Canine & Feline)
発行年: 2025年
出典: Clinician’s Brief, Fall 2025, Vol 23 No 3, pp.61-68
https://www.qgdigitalpublishing.com/publication/?i=850710&p=8&view=issueViewer

